昭和50年 不明 石井昭子15年祭




 金光様のおかげ、天地の親神様のおかけで、今日、こういう、妹の式年のお祭り、を、奉仕させて頂くことがでけた。まず、そのことを一つ本当に御礼を申させてもらわねばならない、ね。今日私、一番始めに頂いたことは、いろいろある中に、今日お花のお供えがしてあるね。かずえさんが持ってきたんだろうけども、あの欄の花に、八つでが後ろにあしらってあって、前に小さい葉の八つでがこう、あしらってある。あれは、ん、まあ姉妹の、手になって、お花がああしてお供えさせて頂いたが、これが本当にあの神ながらなことだと、今日お祭りをこうしてあの仕えさせてもろうて、あのこうして姉妹、身内の者が本当に分からなければならないことを、あの、こう(みうち?)しておったような感じがするがね。あれはね、どういうことかというと、あの欄というのは、分からんということ。それから、後ろの大きな八つでは、後ろの方のおかげの方が大きいということ。前のおかげは小さいと、ね、例えば、おちょうだいなんかする時、何かよけいもろうとする時なんか、八つでのような手を差し出してといったようなことを言うでしょう。これはね、本当に世の中には分からないということがたくさんあるということ。まして信心の世界にも同じこと。これはまだ私達がここまでおかげを受け取るけれども、まあだ分からん世界はどれだけあるか分からん、そこをまあ生涯かけて、分からせて頂く精進をするのが、信心だと思うけれども、本当に考えてみると、まあむつやの上にも分からんことばっかりだと思うね。本当のことが分からんと、ね。

 私がようやく椛目の、で人が助かりだした時に、初めて、あの、田代のお母さんじゃったじゃかね、石井のお母さんどっちかが、あのお参りしてみえて、えーまあ店を閉鎖、止め、もう品物がないからね、えーその、止めるか止めないかということのお伺いであった。それを、あのお伺いをさせて頂いて、あの、続けるようにという、もうその年の、ちょうどあの(さなぶり?)売り出しの、頃じゃったけれども、先生その、(さなぶり売り出し?)に出すというても、もう商品が、売る商品がないちいう。ね、けれども今までの、まあその前にあの、古着なんかをなさっておられたり、まだ売れ残りのもう残品といったようなものが、あるからそういうようなものを結局、前に出してそして売り出しをさせてもらおう。え、とにかく魚屋さんに生魚ばかりじゃない、干物もあれば、塩魚もある、まあそういうような気持ちでと言うたら、もうその時の(さなぶり売り出し?)はもう、とにかく(たまたまたまひろばっかり?)に売れたんです。いわゆる、いうならば、むつやの商品が全部なくなってしまう位に売れた。それから、まあいうならば本気でやろうという気にもなり、まあいうならそれから焚き付けて、だんだんむつやも人の信用を受けるようになって、田主丸のいわば、むつや呉服店と言われるようなおかげを頂き、それから会社組織にする時にも、どちらが社長で、なったがええかというお伺いあったら、どげん何といってもやはり、あの兄弟でなさるのじゃけん、姉さん、姉さんの田代さんが社長としておかげを頂いたらよかろうということで、えー田代のお母さんを社長として、石井のお母さんが副社長として、えーいよいよ会社組織として段々おかげを頂いて、まあ人も認めてくれるような店にだんだんできるようになったかと思うたら、お母さんが亡くなった。矢つぎばやに、昭子さんが亡くなった。えー、しかもこの、昭子さんなんかは、あれは高校じゃったかね。高校の時のあのなんか健康優良児でね、表彰、あのなんか受けた位に、まあそれこそ、うちで普通でいうなら、殺したっちゃころっと死なんごたる立派な体格だったけれども、はあ神様のご都合はどこにあったか分からんけれども、早死にだった。その、今日は御霊の15年たったお祭りなんだよね。
 
 今にして分からん、どうしてあげな、信心、あれだけの信心しよってから、あれだけの、いうならば、何十のむつやがあって椛目がたっとると言われる位に、一生懸命信心もできた、御用もできたですもんね。はらあんた達も、まあ子供心によく知っとるとおりで、あんた達もその、お母さんに連れられて、ただお参りをしてきとったということであった。それから、田代のお母さんがなくなった。あの時に、信司さんはいくつじゃったじゃろうかね。え?23歳じゃった、23歳。ね、まだ23歳、まだ嫁ももらっとらん23歳の、まあおぼっちゃんむす、が、一人いわば残されたというのですね。それから、まあいろいろな問題があって、えーもうこれでむつやもしまえたと世間ではいうような、ことがあったり、それこそ世間の人は、あの、あの時分起こったいろんな問題を、あのむつやのお家騒動と世間のものは言うたようなことのなかをしかし、まあよう本当に今日までね、切り抜け切り抜け、そこんところをおかげ頂いてきたもんだと私は思うです。だからそこだけは分かる。けれども、これほど信心しておっとに、どうしてこういう次々と、難儀なことが続いたかと、いうことは、今にしてまだ分からん。ね、そこでね、私はあの今日の御霊様のお祭りをさせて頂いて、本当にこれはもういよいよんなら分からなければならないことは、信心ということは、あの自分自身が分かることだと言われておるのだからね、これだけはまだ分かる。自分というものは分かる。しかも教えを頂いて教えの鏡をもってすると、それこそ自分の心を顕微鏡でのぞいたように分かるの。ね、そして、なるほどこんなことじゃいけないと、例えば、結局人じゃない、自分自身が分かっていくことに、これならば分かっていくの、限りなく分かっていけるのだから、この分かることをまず分かっていって、ね、信心、精進させて頂きよる時にです、後ろの方には輝かしい大きな八つでたいね、おかげが、後ろの後の方にあるんだ、今前の方に頂いている小さいまだおかげ。そのおかげもね、どういう難儀なことがあっても、どういう目の前が真っ暗になるようなことが起こってもね、その前後に、そればってん、神様のおかげといわにゃおれないことが起きてくるわけなんだよ。ね、例えばなら、今のむつやもまだ、いう、ある意味ではガタガタしながらもです、何とはなしにおかげを受けていく。ね、だから、その分からないというところを、一つ分からせて頂くことのために、まずは自分がわからなければならないと。
 
 私も、もう本当にまあ、私は人並みすぐれた親に孝行したいという一念は、誰よりもつよかったと自分で思うです。それが、(白州 )あたりまでも、でかけた。そして、一旗あげてという、そして本当に親孝行したいの一念が、あーほしい、そして(ふくしの10年 )、えー体1貫で命からがら家族中のものが引きあげて帰ってこなければならないというようなことが起こって、そしてその翌月には、弟の戦死であり、そして妹婿のあと一つのあと、あの、今のスマヨの婿たいね、今椛目の、が、(  )(  )言うとりました。それが亡くなり、そして家内の、姉の婿が釜山から一緒に引き揚げてきのが亡くなった。それで、その家族は全部椛目に親子四人連れ、私は全部椛目に引き取りました。というんですから、ほんと、本当いうと(四人)ですよ、家内の兄がやっぱその、亡くなったけれども、私は、あの半年もたたない内に、いうなら兄弟三人亡くし、しかも私の身にかかってくるものばっかりです、みんな、妹たちであろうが、その、あの、えー母の家内の姉婿であろうがね、というような、矢継ぎ早に起きてくる、そういう中に、ならこれが命の綱とまで思うておった酒屋の商売が配給というのを、止めなければならない、もうそれこそ踏んだり蹴ったりといったような、感じの中にね、もう私はここでひとっつもまあいうなら(  )しなかったことが自分の中でとてもありがたいと思うておるです。

 私は、ご本部へ親先生のお供をして月参りさせて頂くようになったのは、弟の戦死の広報を頂いた月からです。ね、だから結局み教えにあるように、これほど信心するのにどうしてこのようなことが、という時にはもう信心は留まっておるんだと。これはまだ信心がたりんのだと思うて、そこから信心をしていけば、そこからおかげが受けられるという、もうやっぱそういうものが漠然として、私の心の中にあったんだと思う。だから私が一生懸命になるから、家族中のものが、もう一生懸命にならんわけにはいかん、それこそ、もう本当に住む家がない、食べ物がない、着る物がないといったような時代の中を、まあおかげを頂いて、神様一筋におすがりしぬいて、いうならば今日のおかげがあるということは、ちょうど、今日のあの欄の後ろにある、大きな八つでのね、後からのおかげはそれこそ輝かしいおかげになってきたということだよ。だから、これをなら、合楽の一つの小型としてね、例えばあの、むつやのみなさんが、あの、その、小型的な信心が、できるおかげを頂いて。なるほど、分からんことはいっぱいなのだけれども、ね、例えばんなら、んー、さえこさんが亡くなったのは、ここに参ってきよってからじゃからね、いうならば。もう本当に分からんことばっかりなんだ。けれども、ここでんなら一つ、私がはっきり信心の手本というものを示めさせて頂いておって、あれほど一家で信心しござるとに、どうしてあげな、難儀が続くだろうか、どうしてあげな貧乏せんならんだろうかという、それと同じこと。そこをほんなら、分からん、けれどもただ、一生懸命のひたすら神様に縋らせてぬかせて頂いておって、今分からせて頂くことは、弟の戦死も、ね、商売を取り上げられことも、次々と兄弟たちが亡くなったことも、今にして思えば、ね、本当にあれは輝かしいおかげ。だからここで思うこと、思わねばならんことはね、金光教の信心は、どうもきゅうし的な見方をする、もう目先のおかげのことばっかりいうもんね、信心しよってどうしてこげなこつがっとこう言う風な言い方をするけれども、もうそれこそ(忍耐 )そこで、自分の心は一つ顕微鏡で眺めるような、気持ちになって自分の心が赤裸々に分かってくる。これじゃいかん、こげなこっちゃおかげ頂かんはずというものが分かってくる。そこで、なら神様の働き、神様のお心というものは、一つ望遠鏡で眺めるような気持ち。分からんてそれは。分からんけれども分からんけれども、やはり、その神様のご神意、御深慮の深さはどこにあるか分からんという頂き方で、信心を精進していく以外にはないということ。ね、そして、なら今日、あのいわゆる前のおかげよりも、これからのおかげの方が大きい。いうならば、輝かしいおかげにつながっていくことのためには、この分からんところをです、ね、いよい一つずつでも分からして頂いて、いわば、そのおかげを受けた暁にです、ね、なるほど長年の、いうならばむつや一門の人たちのおかげというものが輝かしいものになった時にです、初めてあれもおかげであった、これもおかげであったということになるのであり、ね。

 いうなら、前の小さいおかげよりも、これからのいうならば輝かしいおかげを目指すために、いよいよまずは、めいめいが本当に分からなければいけない、めいめいなら教えを光を持ってするとすぐ分かるもん。教えの鏡をたてるとすぐわかるもん。いわゆるそれを、なおまたこまやかに、なら顕微鏡で眺めるくらいな気持ち。ね、人じゃない、自分自身の内容をいよいよ確かめながらです、ね、これはまだ信心がたりんからだと、なら一段と、より高度なというね、この頃からベターということを頂いたが、その、いわゆるベターな信心に、進んでいかなきゃならない。ね、そして、例えば、ならこうして御霊様たちのお祭りというものをさせて頂く時に、本当にあの時は分からんことばっかりじゃった、ほんにどうしたことじゃろうかと思うた。けれども、こういう輝かしいおかげを頂くことのための、いうならばむつや一門のための礎であった、基礎であったとお礼が言える時に、私は御霊がいよいよ助かるのじゃないかと思うですね。
 今日の御霊様のことは、ちょうどね、もう船がでかかっとるとよ。こうね、それを、走ってきてから、「待ってください、待ってください」といったらその、船が帰ってくるところを頂いた。だから、今日の御霊様のお祭りは、御霊ながらもやはり信心の精進を一生懸命しとることだけは間違いない。その、いうなら船ということは、徳の船ということだと思う。もう危ないところ、乗り遅れるところを、今日のいうならば、こうした真心を込めてみんなのお祭りが、それをまた呼び止めてまたその徳の船にのってまたそのこれからの次の信心に進んでいける、いく姿勢を御霊様が示してくださったというように思うよね。
 どうぞ一つ、んー分からん時には、一つ私が体験してきたことを思ってくれたらいいです。ね、合楽の先生が、なら今日までのおかげを頂いてくる。それこそ信心しよってどうしてということはいっぱいあったけれども、ね、けれどもそれはわからんの。これは、世間にも分からんことはたくさんあるように、信心しよっても分からん。また本当に簡単に分かるごたる信心なら私はそれは浅いと思うよ。ね、分からんところをね、少しずつでも分かって行くというところに限りない金光大神の信心の深さと、または、限りないおかげにつながっていけるという、いうならば、輝かしいおかげにつながっていけれる、おかげを頂く一つの希望というものを湧いてくる。問題はここに必要なのは、いよいよ元気な心で、ね、生き生きとした、いうならば、それこそ若い欄のようなね、今日のお神酒がどういうことであったか知らんけれども、お神酒はあの若の寿とあるね。もうあんた達のことを、あんたたちのを表示したというかね、あの、表したような感じがするです。どうでも、若の寿から、いよいよこれからのね、一つ、まあおかげを頂いて、本当にやっぱりあの、金光様の信心にあれだけお母さん達が打ち込んじゃったが、まあ後後もやっぱ信心続きよったが、やっぱりああいうおかげになった、しかもそれがね、本当の意味で、そういう、いよいよ子孫繁盛家繁盛と言われる、繁盛につながっていくような、子供にも孫にもいよいよ伝わっていくような、そういうおかげを頂かなければならんというね、一つ決意を示す私はこういうお祭りをする時には一つの、まあチャンスだと思うよね。どうぞ、この気をもう逸することなく逸することなく、いわゆる次の信心に進まして頂かなきゃいけんと思うよね、どうぞ。





池尻てるか